映画「JOKER」を観てきたよ〜
という事で、鑑賞後からあまりにもずっとこの作品のことばかり考えてしまうので、その辺をここで吐き出して楽になってしまおうと思います。作品の感想というよりはこの作品とどのようにして向かい合うべきかという部分が自分の中で答えが出せないです。
如何にして“ジョーカー”という存在が生まれたかを描くこの作品。
社会に虐げられ、どうしようもなくなって、限界を迎えた1人の男性が自分を救うために視点を変えてしまえばこの世は全て喜劇なのだと笑い飛ばしてしまう事のカタルシス。
本当は泣いているのかもしれない人間も、傍から見ればマヌケでお笑いであると、遠い国で起こっているような戦争はエンタメとして消費してしまえると、ましてやフィクションの中の悲劇なんて本当にただのジョークではないかと、お前たちはいつだってそうやってそれらを消費してきただろう?と、そういった“怒り”を孕んでいた作品だったと思います。
それでもこの作品はあくまでもフィクション。
だからあの狂人が完成したシーンのカタルシスは素晴らしく、本当に心地が良い。
しかしこの作品が扱っていた怒りはあまりにも生々しくもあり、貧富の差、そこから生じる富裕層への怒り、病気、マジのクソ野郎、吐き気のするような群衆、この世に生まれてしまった事。
それらから救われるには無敵の人となるしかなかった、というのはあまりにも辛い。
そんなものは喜劇だと、所詮この映画はフィクションなのだと少し遠くの視線から簡単に消費してしまうべきなのだと思うが、僕にはそれができなかった。マヌケに見える人間に遠くから近寄ってその顔を覗き込んだとき、ピエロの仮面の下を覗き込んだとき、その人は泣いているのだ。
この作品は僕にとって映画館のスクリーンの中で起こっている出来事でしかないが、TVのニュースの中で見ていただけの事件も、僕にとってはその中で起こっている出来事だった。どちらも遠くから見ているだけだ。
どうして僕はこんな面倒な感想を抱いているのだろう。
おそらく自分はとても馬鹿らしいラインの上にたっているのだと思う。
現実と虚構の区別をするのが苦手だ。
混ざり合ってしまえばいいと本気で願っている。
だからこそこの作品のあの救済を肯定してしまうと、僕は現実での許すことなどできない人までも肯定してしまったような気になってしまう。
それが物凄く怖い。
鑑賞時にそういった感想を抱いていたから鑑賞後にTwitterで色々な人の感想を漁っていくほどに精神が滅入ってきた。
熱狂している人は上手く距離をとれているのだと思う。
実際、こんな僕の悩みも笑い話でしかないのだ。
この世の全ては喜劇なのだと笑い飛ばしてしまうのが1番楽なのだとジョーカーは教えてくれた。
でも本当にそれでいいのか、この作品への向き合い方は、距離感は本当にそれが正しいのか。
グダグダ言ってみたけどやっぱり答えを出すのは難しい。